次の50年への鍵は今にある

創業社長遺稿集より、木材業を原点として成長してきたグループ各社・各部門の成り立ちについて書かれた文を紹介します。(昭和58年10月号他)
価値観、社会経済の激しく混乱する終戦直後に創業し、その草創の時代に本業の充実と並行して次々と事業展開されたことが分かります。
今は当時と比較される混迷の時代、次への布石を大きく打ち出す覇気を今の私たちも大切にあしたいと思います。

農村一帯の便利屋的存在

戦後未だ日浅く、生活は最底、不自由の極限であり、本業以外にも鍋や釜の蓋、その他台所の日用品、また鎌、鋤、鍬の柄などをはじめとする農機具の修理と、あわただしい製材部門でした。
当時は面倒をみてもらえるとなると、色々な依頼が殺到する時代でした。
便利屋的仕事は、人に喜ばれる上に商売にもなるということから、未経験の若者を弟子入りという格好で雇い入れました。

注文も次々と増え、手鋸から動力付丸鋸、手鉋は自動鉋になりました。
次に小型の木工機が欲しいということで、ガラクタ倉庫になっていた旧事務所を整理し、中古機械を修理、手入れしてすえ付けました。
これでこぢんまりとしながらも木工所と称する外見が整い、わずかながら収入もありました。

学校の生徒机の受注で急成長

薄暗い古ぼけた建物の中で、細々と木材加工や修埋をしていたところに、ドサッと大きな注文が舞い込んで来ました。
嬉しいやら心配やら胸中複雑ながらも、全員眼が爛々と輝いて大変な張り切りようでした。
当時、学校は校舎をはじめ机、椅子、備品共に大変な荒廃ぶりでした。
そこで校舎を旧兵舎を払い下げて立て直すことになり、机、椅子の製作が私共のところに注文されて来たのでした。

ところが既設の機械設備ではとても対応できそうになく、昼夜交替の人海戦術もとりました。
角ノミなど焼けて煙が出ると、水では間に合わないので石油をかけて冷やしたり、塗装などは臨時雇いによる荒っぽい仕事でした。
それでも納期に間に合わないので、あとは学校に行って拝み倒す以外に方法はありませんでした。

一段落してから、罪ほろぼしの気持もあって、夏休み期間中に学校を巡回し、机や椅子の修理を無料奉仕で致しましたが、このような受注増大を契機に新しい機械が導入され、工場の整備、充実は目を見張るものがありました。

木材業界の今昔

今から考えてみますと、当時の木材業は、もったいない位に素晴らしく恵まれた好況業種の一つでありました。
その理由は、終戦後の荒廃から立ち直るための復旧資材として木材が大きなウエイトを占めていたからです。
ただ昭和24年のドッジラインの1ヶ年だけは、木材業も例外となることなく不況の真只中に立ちました。
しかしこれは全業種共通の痛手であり、それを除けば恵まれておりました。

そのような中で、敢えて何か別の事業に手を拡げる事もありませんでした。
むしろ下手をして損する危険を考えれば、木材業一本で事業を営んでいた方が、結構優雅な生活が保証されていたといえます。
逆に言えば、そのように安定した成長を続けた事が、現在の木材業界の旧態然とした実態、苦境の原因ではないかと考えられます。

恵まれない当時の建設業

木材業の好況とは裏腹に、当時の建設業はまことに気の毒な業界で、現に今をときめく最大手の建設会社も倒産寸前にまで追い込まれた事もあったのです。
それもその筈で、工事を落札し契約すると当然工事金額は決定しますが、当時は激しいインフレで、あれこれ手続きする内に資材は日に日に高騰するわけですから、業者にとっては仕事を取っても地獄の苦しみでした。
資材の高騰に加え労務賃金も上昇するので、まさに八方ふさがりとはあのような状況をいうのでしょう。

またインフレに加え、地方公共団体の財政逼迫という疾風、大波は容赦なく建設業者を呑み込む勢いでした。
例えば高山町は財源乏しく、私共さえ未収200万円という当時としては莫大な残高があり、町有地を提供したいとの申し出があった位でした。
官営であった高山川の河川事務所も支払が遅れ、支払を受ける頃には木材などは倍位になっていたので、とても納入する業者はおらず、役所の方から三拝九拝されるような光景が見受けられる等、今では考えられない時代でした。

そのように労多くして実りのない上、社会的地位も低く、その頃の建設業界をして「土方と荷馬車曳きが喧嘩して、人間が仲裁している」という自嘲的な言葉があったくらいです。

何故建設業界に進出したのか

建設業界に進出したのは、3つの理由によります。

第一に木材業は材料屋で、仕事が終了したら、何も残りません。
利益は残りますが、ただそれだけのことです。
そんな事から、やはりこの仕事は我々がやったのだという、世の中に形で残る、成就した歓び、足跡がはっきりと残る事業をやってみたい。
建築にしても土木にしても、利益以外の満足があります。それが建設業の魅力でした。

第二に、将来的な不安です。
現在の世相とは大分異るかもしれませんが、当時は何の職種でも、仕入で苦労すれば売りで楽をする、仕入が楽であれば売りで苦労するというように、どちらか気の抜けるところがあるものでしたが、木材の場合、原木の仕入先は営林署で、三拝九拝してやっと払い下げてもらう。
まるで鷲の下の雀みたいなものでした。
民有林にしても山主は田舎の旦那で、これまた威張った存在でした。
呼び捨てにされても「ハイ、ハイ」と平身低頭するばかり。
甘藷や大根のように一年で腐るものとは違い、山林の立木はその気になってもらうのが至難の技でした。
加えて製品を売る方もなかなかでした。
売り先である木材市場では、セリで買われるのですが、値段は建設業者を主とする先方まかせ、こちらの言い値は通らないこともありました。
底力のある建設業者に限って渋く、とりわけ仕入担当者は資材の値を叩くことに生きがいを感じているようでしたし、叩けば叩くほど「やり手」とか「手腕家」との評価が高くなるような背景がありました。
また時たま平身低頭して巡回して来る木材仲買人がおりましたが、うっかりこれにひっかかると、とんでもない食わせ者であったりしました。
当時の木材業は恵まれ、好況であったのも事実ですが、既にこのように、その体質的な問題として買い方にも弱く、売り方にも弱い立場におかれていたのでした。
このサンドイッチ的な業態である限り、必ず双方から振り回されて困窮する時代が来ると、確信をもって予期したのです。

第三に、木材業と建設業とはシーソーみたいな関係で、木材業が好況の時は建設業が不況、木材業が不況の時は建設業が好況ということで、この二つの業種を同時にやって行けばなんとか苦境は切り抜けられる、というのが死んだ父親の言葉でした。

以上のようなことから、先行投資のつもりで、敢えて苦境に入る覚悟で建設業に足を踏み入れることになりましたが、すぐにうまく行くものではありませんでした。

赤字続きでもやりがいがある

建築の第1番目の仕事は、昭和23年に施工した高山町宮下の個人住宅の仕事でした。
その年は1年間に2棟建築しました。
木材そのもので売るよりもはるかに割が悪く、利益など全く無しでしたが、「おお出来た。我々の手で住宅が…」という完成の歓び、満足感は残りました。
次の年は波野中学校の増築及び新築。
昭和25年には高山町役場の増築。
昭和26年には河川事務所発注の新前田橋の橋台・橋脚・橋体を、それぞれ3業者で分割施工という事になり、私共は橋体を施工しました。
続いて神之市橋という具合に、仕事の量、質ともに充実していきました。

住宅業に進出した考えは

30年代は未だプレハブ大手企業はなく、住宅業進出については、これからの企業発展の一翼を担うどえらい仕事というのが私の印象でした。

戦後の生活事情は、まず食う事に血眼になり、それがなんとか腹一杯食えるようになったら次は衣類、衣類もどうやら目処がつく、これらのことが解決すると、次は住まいの充実だと考えられてきました。
当時の住宅はやっと雨露を凌ぎ、一軒屋に数世帯が住み込み、物置も住宅にしているといった状態だったのです。

『住宅新築は施主にとって大変な仕事』

三代かかって家一軒と言われる様に、家づくりは親父の代、子の代、孫の代までかかる大事業でした。
家づくりの考え方は、大工、職人を雇って、施主が自分で造る、といった意識でしたから、よい家を造るためには

  • 施主自身が張切ってやる。
  • 大工、職人の機嫌を損うことがないように、精一杯サービスに勤める。
  • 木材などは施主自ら数年前から準備して確保し、工事は正月あけの農閑期を選ぶ。
  • 工事期間中は、大工棟梁の指示で不足材の調達に駆け回る。

等したものです。

工事外の出費も多く、地割、地鎮祭、手斧立(着工祝)等…その中で最も盛大に行われるのが上棟祝です。
部落総出の加勢、それに三味線、太鼓、踊子までくり出して夜まで宴会。
さらに毎日の休憩時には茶菓子の準備、タ方になると酒食の接待。工事期間中、施主も主婦もかかり切りで面倒をみなければならず、大変な時間と気遣い、労力だったと思います。
考えただけでもうんざりするようなことをやって来たのです。

一方、職人は一日いくらの日当でしたからノンビリとし、工期もあってないようなもので、延びても一向におかまいなし。
自然、経費は増加することになります。
当初の予算と大きく喰い違っても、どこにも苦情のもっていきようもない。
下手な苦情を言うと途中で放棄されて、世間の笑い者になるわけです。

「家づくり」これは施主に大変な神経の消耗と金と時間の犠牲を強いることでした。

住宅建設に乗り出す

このようなことから、規模からいうと地方で大手の内に入る私共の企業が、地域職人のやる個人木造住宅に本格的に取り組むということは、当時としては異様なことでしたが、理由として次の3つをあげることができます。

1、木材の加工度を高める。
木工部門もそうでしたが、木材もただ単に材料として出荷するのは情けない。
付加価値を高めることが大事だ。
郷土の山林のメインである杉檜を大量に使うのは住宅よりほかにない。
せっかく自分達の製材工場で挽いた製品だから、自分達の手でお施主様にお届けしようではないか。

2、公共の建築工事だけでは将来先細りだ。
地方における建築工事の対象はほとんど公共工事で、その施設も完成すればもうそれで終り。
町内外の学校等も年々整備されれば仕事が減っていく。
私共は企業規模を徐々に拡大して行かなければなりませんので、公共工事のみを対象にしていたのでは、先がみえているということです。
その点、個人住宅は未来産業だといえました。

3、経済の変動期に強い。
前に言った「木材は経済の変動に敏感で、自然、価格の変動が激しい。それに対するには住宅、建設業を併せて営業する方が安全だ」という父の言葉に、さすがと、先見の明をしみじみと感じたのは、昭和48年の石油ショックの時でした。
木材業者は笑いが止まらぬ位儲け、建設業者は最も苦しみました。ところが58年頃からはその裏返しで、建設業者はまあまあ恵まれていると言えますが、木材業者は塗炭の苦労をしております。

多角経営企業の強み

私共が猛進撃を始めた長期5ヶ年計画の丁度3年目に起こった一大旋風、それが昭和48年年末の石油ショックでした。
私の脳裏に終戦前後の物不足の悪夢が再び蘇り、それは不安な毎日でした。

国民は、買い溜めや売り惜しみに右往左往し、振り回されました。
その中で最も大きな打撃を受けたのが、建設業関係ではなかったかと思います。
工事完成に必要な生コンその他の建設資材の供給がストップし、ベラボウに値上りしたのです。
木材関係も価格が急暴騰しました。
まことに変な話ですが、予約があってから製品を納入する段階になると、価格は2倍になっているという次第で、全く物の流通が混乱したのです。

ですから、この様な混乱期を利用した悪徳業者も暗躍したと聞きました。
がしかし、この様な時こそ、企業の信頼性を得、体質の強化をはかり、世間によく言う契約修正、物価のスライドをやることなく、また契約通り完成品を納入できたのも、私共の企業が多角経営による融通を可能にしたおかげだと思います。

苦難と脱皮

創業以来、そろそろ40年になろうとしています。
これまでの間、幾多の困難、災害にぶつかりましたが、その中で最も大きく心に残っているものの中から考えますと、好んで苦労する必要もないけれど、生きるか死ぬかの苦労を体験し、もし生き延びることが出来さえすれば必ず苦労し甲斐があると言えることです。

丁度それは、卵からサナギになるまで体重は3400倍、そして4回ぐらい脱皮をくり返す昆虫が、厳しい冬、種類によっては幾年も地中での生活に耐えて、それでやっとまばゆいばかりの蝶やセミに変身していく姿そのものです。

企業の世界でも、時代が大きく変わる時は、飛躍のチャンスにもなるが崩壊の危機も潜んでおり、その中で生き延びるためには、それなりの試練が必ず待ち構えていることを覚悟しておかねばならないと思います。

(昭和58年10月号他より)