経営理念

企業は「人生の道場」

shitunen

私は企業を「人生の道場」と念じております。
それと申しますのも、終戦直後の混乱の中で、私は教職を断念しまして、生活に密着した切実な教育の必要から企業を設立いたしました。
そして今、より良い生き方を求める人間としての生涯教育を企業の中に求めております。
初心を貫き通そうと考えてから三十有余年、ただひたすらに「郷土の皆様方に誇りとしていただけるような企業をつくる」ということに、自分のすべてを賭けて参りました。
そういう中で、私共は社長も社員も作業員も、企業のそれぞれの機能を分担して、それに精一杯努力し、人間としてはみな平等でありたいものと念願いたしております。

創業精神

山佐グループ進発式<昭和46年10月16日 於高山高校体育館(当時)>

創業社長の決意

今から26年前、この世界に飛び込んだわけですが、飛び込むもととなったものをまず申し上げたい。

結論から申しますと、「すべての人間は豊かでなければならない」と私は考えたわけであります。
今頃申し上げることは、幼稚な考え方かもしれませんが、私はこれが身にしみているのであります。
終戦前後、私は鹿屋市の花岡小学校に勤務して居りました。
色々の思い出の中にまことに悲しい思い出があります。
それは昼食時間に子供の弁当箱が無くなるという事、子供達の中の何かのトラブルはそれが元となったり、体育時間腹が減って先生休ませてくれと言う子供、もっと悲惨な例は便所に行く時も弁当を持って行かないといかれない状態。
また畑の生芋を掘って食べたため、泥棒呼ばわりされた生徒と一緒に、その農家にお詫びし、代償に畑の草取りをして帰り、なにがしかのもらった食糧を子供に渡して、将来を戒めさとした思い出。
私はその頃子供と一緒に居ながら、教育も大事だと、だけれどもまず食えなければと感じたわけであります。
なんと言っても「すべての人間が人間らしく生きる第一の条件は、豊かでなければならない」という事を骨のずいまで感じたわけであります。
現在その当時と比較することは出来ませんが、都会と比べて家族構成その他色々の事情と環境では、私共の周囲の人は未だ豊かであるとはいえません。
少なくとも「人間らしく、生きがいのある生活の基盤づくり」を、私たちの企業は真剣に取り組みたいと思っています。

第二番目に、「親子夫婦ばらばらの生活は是非したくない」と言うことであります。
終戦の翌年の昭和21年3月、教師の職は同僚、後輩に委ねましてこの業界に入ったわけであります。
当時復員者は続々郷里に帰って来るし、都会は未だ企業の受け入れ態勢が整備されていなかったので、就職先もおいそれとなく、仕事の無い時はお互いだと言うことで、当時20名で十分なのに40名雇用する時代が、昭和30年頃まで続いたと思います。
新卒者を採用するにも就職希望者が10倍位、今からは考えられない事です。
その頃鹿児島県としても中央に就職先を開拓し、就職列車を仕立て、音楽隊付で賑やかに見送ったと言う事を皆様方もご記憶あると思いますが、行く先不安の親子の悲しい別離の駅頭風景は、経営者として先輩としてまことに残念であり、恥ずかしい思いで一杯でした。
更に最も悲劇は、夫婦、子供との別居生活、特殊な職業は別として、ただ生活のみの理由で、夫婦、子供、年老いた孤独の親をおいてけぼりにして、中高齢者の涙の出稼ぎに至っては人道問題だと思います。
もちろん、それによって派生する悲劇は起こるべくして起こっています。
この様な悲劇を絶対に無くすために、親子兄弟共に働ける職場を提供したい。
その様な共に働く場をつくる。
私はそれに懸命の努力を捧げたいと思っております。

第三番目に、鹿児島県は貧乏県だと、いかにも運命的なものとして定められたもののような言い方をするのは、実は卑怯千万な逃げ口上だと思います。
これは私達経営者を中心として県民全体の責任だと思います。
強いて鹿児島県が貧乏県だとすれば頭脳の貧乏であり、努力とやる気の欠乏であり、人材の流出だと思います。
アメリカのアリゾナ州は砂漠だったそうですが、地下二千尺までパイプを打ち込んで、それから水を汲み上げて、立派な農場農園をつくったと聞いております。
私達は、この鹿児島県の郷土にそれだけの開拓精神を持っているかという事をお互い反省したいと思います。
当地方は経済面のみにしぼって考えた場合は、条件は必ずしも整って居りません。
むしろ逆かもしれません。
自分では走らず、ひっぱらずに、努力せずに、政治がどうだ、世間がどうだと批判し、他人事のような事を言っても始まらないと思います。
目先のことだけでなく、自分で切り開く努力を命がけの熱意でやってみたいと思っています。
以上この三つの事が、私の企業経営に対する基本の姿勢と考えて居ります。

こうした中で私達の経営の基本姿勢を貫くために、私達のこれから進むべき道をここに明らかにし、その決意を皆様に御披露したいと考えます。
私達山佐グループは鹿児島県のここ大隅半島において成長発展してまいりました。
これはひとえに郷土の皆様方のご援助、御協力のたまものと深く感謝いたして居ります。
過疎地帯と言われます大隅半島は、私達が生まれ、育った郷土であります。
私達山佐グループは、この郷土に密着して、今後より一層成長発展してまいらねばなりません。
今は過疎地帯と呼ばれても、私達の努力と熱意で、大都会の企業にまけない夢と生きがいのある職場づくりをするならば、必ず地元の優秀人材はこの自然に恵まれた、私達の郷土で働こうという気持ちを持って戴けると確信いたしております。
私達は郷土大隅半島に豊かな、生きがいに満ちた企業をつくりあげていくことが、私達の使命であると考えます。
郷土の人達が本当に誇りに思っていただける企業をつくること、これが私達の経営姿勢を貫く唯一の道であると確信いたしております。
『郷土が誇る企業をつくる』これを私達山佐グループの企業使命として、本日をもって新しく生まれ変り、再出発する所存であります。
山佐グループに籍を置く社員の諸君は、一人一人がこの使命を深く心にとどめ、『郷土が誇る企業をつくる』山佐グループの社員として恥ずかしくない行動をとる様に決意をあらたにしていただきたい。
私達はこの使命観を果たすために長期5ヶ年計画を策定いたしました。
この計画を達成していく過程で、必ず私達の悲願を達成し、郷土が誇る企業づくり、全国の注目を集めるだけの、過疎地帯における新しい企業づくりに邁進いたす決意であります。